よはくのてちょう

手帖の余白に書くようなことを

本質的な悪とはなんぞやということをよく考える。
「絶対的な悪」と言い換えてもいいかもしれない。

結論から言えば、自己の価値観を他者に押しつけることなのだろうと思う。
言いかえれば、自分という存在を他者に押しつけること。

絶対的な悪と思われるもの。
まず「戦争」とか「殺人」などという言葉が思い浮かぶ。
しかし、それらは悪の端的な発現であって、悪そのものではないだろう。
たとえば殺人も自分勝手な価値観を他者に押しつけるということなのだろう。他者を否定するということはそういうことだ。
たとえば戦争も自己の正義を他者におしつけあった結果だろう。人が自己の正義を信じなければ、ほとんどの戦争は発生しないだろう。どこかで自分だけは正しいと信じてしまうから争いは発生するのだ。

たとえ「正義」であっても他者に押しつけた瞬間に「悪」となる。
たとい中身が正義であったとしても、押しつけるとたちどころに悪となってしまう。
それが平和であっても。
嫌煙であっても。
もちろん、他者の迷惑をかえりみず莨をふかしていることも「悪」だ。

たとえば。
シー・シェパードのことはかなりの日本人が鬱陶しく思っているだろう。
しかし、シー・シェパード嫌煙派ととてもよく似ている。
自らの価値観を正義と信じ、それを実現するために邁進している。
アメリカという国のありようもよく似ている。
自分だけが正義であり、自分が正義を守っていかねばならない。
嫌煙派ならシー・シェパードの行動に理解を示さねばならない。
あるいはシー・シェパードを「どこか間違えている」と感じるならば、自らの間違いも感じとらねばならない。主張は正しい。しかし、それを強引に他者に押しつけるのは間違っていると。

存在は存在することそのゆえに(あるいは体積があることそのゆえに)ある程度悪なのだ。
もちろん、生きているだけでそれなりに善であるという面もある。どんな者であっても他者に好影響を与えたことがあるだろうから。
善悪の量というものもあるだろう。が、量的なものはおそらく本質ではない。

ともあれ、おそらく人は、生きているだけでいくらか悪なのに違いはない。
ならばせめて可能なことは、「なるべく」他者に迷惑をかけず影響を与えず、大人しく生き、しずしずと世を去ることだろう。


参考