よはくのてちょう

手帖の余白に書くようなことを

お客様と接する

一番上の人から、「お客様と接せよ」ということをよく言われるのだが、たとえばネット上の販促活動で100人中2人が買ってくれた。そういうこともお客様の姿を見ていることにならないのだろうか。
その後なんらかアクションを起こして、100人中5人が買ってくれたとなったら(あるいは100人中1人も買ってくれなくなったら)そのアクションの方向がある面正解(ないしは不正解)であって、その方向のどこかを向いていけばさらによくなる可能性があると(あるいはその方向以外も試してみた方がいいと)、そういうことはお客様と接していることにならないだろうか?
たとえば商売がレストランなら、呼び込みをしたりレジでお客様と接しているよりも皿洗いをして残飯の状態を知る方がお客様の実体を知ることにはならないだろうか?
もちろん、直接人間に触れている方が「エピソード」は発生するので「現場感」や「接している感」は強いわけだけども。

そしてまたそのことと同義で「現場に行け」ということをよく言われるのだが、一番上の人の言う「現場」は「営業現場」なのであって、ぼくらの本来の「現場」はターゲットとしている人々の活動の現場なのではないのだろうか?たとえば教師がターゲットなら自宅や大会や職員室で個人的に会うだけでは「現場」とは言えず、教室であるいは終日ついて回るしかないのではないだろうか。
そして、ぼくらのやっている編集やDTPの現場も「現場」なのではないだろうか?その「現場」でしか知ることのできないものはあるはずだが、営業を「現場」と考えている人はそういうふうには思わないようだ。
内勤の連中は現場を知らないということだ。事件は「現場」で起こってるんだと。内側の「現場」でも日々事件は起こっているのだけどなあ。新聞社なら記者の取材も「現場」だろうし、整理部の活動もやはり「現場」だろうと思うが。
ぼくらがたまに「営業現場」に出て、直接あった数人の人びとの意見を商品に直接取り入れてしまうのは危険なのではないだろうか?それは少数意見すぎるのではないだろうか。もちろん、正解の意見をもらえる場合もあるだろうが母数は多い方が「お客様」の実状を示すのではないだろうか?

なんてことをつい考えてしまうのはぼくが営業型人間ではないから?