よはくのてちょう

手帖の余白に書くようなことを

新聞の役割

考えてみました。

とりあえず下書きレベルの覚書です。でも、公開しちゃいますけど。まあ、永久に完成しないページでしょうし。


なるべく簡単なことばで書くつもりです。

難しいことを易しく書くことは一種の詐欺でもありますけど、難しくしか書けないということもまた自分で消化できていないということかなとも思えるし。


ということで(どういうこと?)、あまり他の本とか意見とかを参照しません。

なんとか自分自身の中にあるものを分析していくことだけで書いていこうとしています。

自己分析ではあります。

だから、独断と偏見の部分は強くなりますし、あまりにも初歩的な部分での考え違いもあるだろうと思いますが、その辺は「どこかで気づくだろう」と笑って見守ってやってください。

少しずつ完成度を上げていくつもり、ですが。


報道・ジャーナリズムは、もしかしたら衰退しているのでしょうか?


新聞の重要な役割に行政への批判というものがあると思われます。

それは社会の問題を浮き彫りにすること。

・世論を動かし、その問題点を解決するきっかけとなるのも新聞などの報道。

・それだけに、報道の自由は重要。

ですが、報道による体制への批判がしにくくなっているのではないでしょうか。


現在の日本は格差はあれど、それなりに豊かな社会。

豊かすぎる社会では、あるいは報道の意義は減じるものかもしれません。


どんな社会でも細かな問題点はあるのでそれを報道するのは当然のことです。

細かなというのは語弊がありますね。体制の問題というよりも、個人の精神(こころ)の問題が重要になってきているのだと思います。


心の問題は個人の問題。どれほどきちんとした体制を整えても、これは発生し続けます。

そんな個人の日常的な、細かな話題がよく取り上げられるようになったことは、体制への批判がしにくくなっているがゆえなのかもしれません。


中国産ギョーザの問題などたとえば中国側は「日本は騒ぎすぎ」ともコメントしていたりするようです。「なぜそんな言い方をするの?被害があったのに」というのが日本側の感覚でしょうが、あるいは、中国ではいまだジャーナリズムが扱うべき大きな話題が充分に残っており、こういう日常的な話題はそうそう大きく取り扱わないものだという意識があるのやもしれません。そこらへんに格差というか、ズレが発生している可能性はあります。


教員の不祥事や体罰なんかも今はすぐに新聞沙汰となり、うっかりするとその教師の一生を壊してしまいがちですが、状況によりますが、こういうのは地域や学校内で「今度から注意してくださいね、何度もやってるとクビにしますよ」とたしなめていく程度ですませるべきものかもしれません。

報道が扱うことによって、必要以上の社会的制裁を受けている可能性はあります。


報道機関が扱うべき話題が小さく細かくなっているのはたしかなような気がします。(そのことの良し悪しは、とりあえず今は語りません)

でも、世界を見渡したら、いくらでも問題はあります。


戦争・紛争、飢餓、etc...


これからの新聞報道は世界をひとつの「体制」と考え、世論を、世界を動かしていくようになっていくことが生き残る道なのかもしれません。


視点のグローバル化

言語のグローバル化

紙面のグローバル化


ジャーナリズムの最終的な着地点は、少しでもより良いと(とりあえず多くの人に)感じられる世の中にしていくことなのだろうとは思います。


そのために、「ちゃんと見てるよ」という態度を示していくことなのだろうと。

それはべつに行政相手に限りません。

そう…、ジャーナリズムとは態度・姿勢を示すということなどでしょう。

結局のところ、何らかの圧力となることがジャーナリズムなのでしょうか?


ちゃんと見ているということを示すためには、ただの悪口では無理です。それは不快に感じさせることができても、脅威とはならないでしょうから。


そのための手法が、取材であり、調査なのでしょう。ここは一種の「科学」となります。

ここでいう「科学」とは、ものごとを客観的・普遍的に検証しようとするための考え方、その手法のことだと考えます。


新聞社をはじめとするメディアは、一般人にはない多大な組織力を持っています。これは上記の手法を採るには非常に大きな武器となります。新聞の信頼感はとそういうことなのでしょう。大きな武器を持っていますよ。これはそれなりの実績がありますよ、と。

中身は所詮人間が作っているものであり、頭から信用することは危険でもありますけど、「朝日新聞」という組織が書きましたよ、「産経新聞」という組織が書きましたよというラベル自体が信頼感ということになります。


記事そのものを読んでも、それにどれほどの裏付けがなされているのか判断はなかなか難しいでしょう。特に畑違いのジャンルであるならば。

で、一般人は、ほとんどのできごとについて畑違いなのです。


まず語り口は重要でしょう。

悪口雑言の繰り返しで品がなければ、どれほどの裏付けをその人が持っていても、おそらく信頼感は得られないでしょうから。

逆に言うと、信頼感を得るためには口が上手だったらそれだけであるていどなんとかなってしまうという面もあります。

詐欺師はおおむね口がうまいですものね。

そこでラベルが重要にはなるわけです。


最終的な着地点が「みんなの幸せ」であるならば、権利の問題なども比較的考えやすくなるかもしれません。

報道の自由はどこまで許されるかということについて、多くの人の幸せということを考えたら、芸能人の私生活などはさほど重要ではなく、政治家の私生活はそれなりに重要であるとは考えられます。

もちろん、ゴシップを知ると幸せを感じる人々はいるでしょうが、意味合いの異なる幸せですね。

もちろん枝葉末節、くだらないことまで見ているという姿勢はすべての人間にとっての抑止力になり得ますが、それはうっかりすると人を不幸にすることにもなり得ます。

その個人の不幸(報道され、うっかりすると社会的に抹殺される)が多くの人の幸福につながるものであるかどうかの判断が必要となるでしょう。


ジャーナリズムとしての力を上げるためには、大きな出来事はできるだけ細かく、市民の細部にわたる報道は控えめにするのがひとつの方法であるかもしれません。


小さなできごとの報道は人が読んで嬉しくなったり、ニヤリとできたりするものに限るのも悪くないかも。

(未完)