よはくのてちょう

手帖の余白に書くようなことを

本のおもしろさ

いまや本のおもしろさは何が書かれているかではないのだろう。

小説ならすでにストーリーではないのだろう。
どんなストーリーもどこかに似たようなのがあるだろう。
ほとんどの場合どこかで読んだなあと思える。
物語を壊したようなものすら含めて。
たとえばシュルレアリスムの作品ですら。
ぼくらはシュルレアリスム的表現を普通のものとして育ったからあの手の斬新さはすでに斬新ではなくむしろ古さすら感じることもある。
すでにどんなところにも入り込んでいるのだ。
にもかかわらずおもしろいことは多い。

ミステリならトリックもすでに面白さの第一因ではないのだろう。
よっぽどでないかぎりは。
たくさん読んでいるとどんなトリックにも新しさは感じなくなる。
多少目新しくても、なんらかのバリエーションという感じで。
にもかかわらず、あるいはだからこそ?楽しめる。

小説でないなら書かれている内容ではないのだろう。
ほとんどの場合どこかで読んだようなことが書かれている。
似たような題材が扱われている。
にもかかわらずおもしろいことはそれなりにある。

ならばおもしろいとはどういうことなのだろう。

おそらくは・・・
どう書かれているか。
それなのだろう。

おもに文章。
これが独特なら、味があれば、何が書かれていても面白く感じる。
これがほんとうのプロだろう。

そして作品の雰囲気、ココロ。

そして書かれている内容、題材の組み合わせ。
ドラッカー高校野球の組み合わせのような。

そしていいことばがたくさんあるとか。

そして、細部。
うーん、そうかな。
もしかしたら結局のところ細部のおもしろさが本のおもしろさなのかもしれない。
神は細部にやどる。
作者のココロは細部にやどっているのかもしれない。
文章も、内容の組み合わせも、これになるのかもしれない。
キャラクタメインの小説だってキャラクタという細部を楽しむ小説なのだろう。

たとえばメルヴィルの「白鯨」。
当時としては物語としても斬新だったかもしれないけど、今となってはそれほどではない。あれがプロトタイプとなった小説をおそらくはいくらも読んでいるから。
でも、今読んでもおもしろい作品だ。
それはあれが捕鯨の百科全書でもあるから。
タイクツで読みにくく感じていた作品が、それに気づいたとき不意におもしろくなる。
本筋ではなく、こまごまと捕鯨の薀蓄が描かれていくその細部を楽しめるようになったときはじめて面白さを感じられるようになる。

たとえば京極夏彦さん。
あの人の作品は細部だけでできてるとも言える。
題材の組み合わせのおもしろさ。妖怪とミステリ要素の組み合わせ。
なんかいろいろ雑学。
キャラクタの特異さ。
文章のなりきり度合い。
楽しい要素が満載。
ほとんど何も残らないけど愉しかったなあという気分だけは充分に残る。

・・・まだ考え中です。