よはくのてちょう

手帖の余白に書くようなことを

歩く二人旅の番組を観て

昨夜たまたまテレビをつけたときベビーカーに荷物を積んで(赤ん坊は入っていない)日本縦断の歩き旅をしている男女のカップルの話をしていました。
どうやらブログを書いているらしいので探してみると、それぞれが書いているようでした。
  ・女ブログ
  ・男ブログ
それによると「エチカの鏡」という番組だったようです。
10分ほどでスイッチは切ったのですけど、うらやましくもあり、うらやましくもなし、でした。

ぼくもずっと前に長い間ふらふら歩き続けて(ほぼ)日本一周していると思うのですが、ああいう旅をもう一回やってみたいという点ではうらやましい。
でも、あんなふうに取材を受けたり、ブログを書いたりしているとそれだけで楽しくないんじゃなかろうかと思ったりしました。その点ではうらやましくない。

番組の中で旅の三原則というのを出していました。
  ・予定を立てない。
  ・観光地に近寄らない。
  ・人の好意はありがたく受ける。
そんな感じだったでしょうか。
最初の「予定を立てない」というのは大賛成です。
でも「日本縦断」と銘打った時点で、もう予定、立ててますよね。だからこの辺はぼくのイメージではない。
「人の好意はありがたく受ける」というのも、結局、「予定」というのは社会とのつながりによって発生するものだと思うのですが、たとえばたまたま知り合った人の家に泊めてもらうと決まった時点でなんらかの「予定」が発生してしまうので、ある意味矛盾しているのかもしれません。
まあ、優先順位をどこにおくのかというところですか。
おそらくは、この二人にとっては「人の好意をありがたく受ける」ということが上位に来ているのだろうと思います。
だから、これでOK。

ぼくの旅とこの二人の旅は、同じ歩く旅という点で似ているようで、かなり違う。
どこか違うのか考えてみました。

たぶんこのお二人の旅は意識が外に向いているのです。
だから他者との出会いは大切だし、さりげない風景に観光地よりもいい風景を見いだせることに喜びを得るのでしょう。

一方、ぼくのはひたすら内にこもる旅だったでしょう。
他者とのかかわりをなるべく排し、風景なんてどうでもいい、歩いていればそれでいい。
なるべく多くのつながりを削り、たった一人になっていく。
せっかく一人になりに行っているのに、「世の中」を連れて行ったり(ラジオすら持たなかった、ましては他者といっしょでは・・・)、「新しい出会い」を作ったりしてはもったいない。
そんな旅だったので。
日本にはたくさん観光地があるので、たまにそういう場所に遭遇することはありましたが、そのときはあきらめて観光すればいいでしょう。
すでにある程度削られた後には、さほど邪魔にはなりませんでした。

そして、予定どころから、向きすら決まっていませんでした。
だから「ほぼ」日本一周。
自分でも歩いたコースと距離がよくわかってません。
折に触れて知ることのできた地名を総合してみると、そのくらいにはなってるかな、と。

しかし、途中で幻想の領域に入っていたやもしれません。
海を渡った記憶がないのに、なぜか、どうやら、四国を歩いていたことがあったりしました。
どこかで、何かが、欠落してしまったのでしょう。

おそらくその四国の中で、たぶん、愛媛と高知の間あたりで、誰もいない集落の痕に出たりしました。
そこの雰囲気が気に入って、もう一生、ここで暮らしてもいいと思ったりしていたのですが、自給自足の技術もないし、結局、今ここにいます。

ともあれ、お二人の旅は、ぼくにとっては旅ではないということなのでしょうが、こういう行動を取ることができるという、その点で、尊敬に値します。
こういうタイプの旅を好む方々はおそらく、実生活に戻っても、しっかり生きていくことのできる人なのです。
ぼくとは違って・・・