よはくのてちょう

手帖の余白に書くようなことを

不快指数はほんとうに不快なのか?

いま冷たいシャワーを浴びてきました。
ああ気持ちよかった。
すこしはもつでしょう。
でもすぐに元の木阿弥なことでしょう。
不快指数がとても充分なものになってきてるでしょう。

とそこまで考えたときこれってほんとうに「不快」なの?との思いが出てきました。

夏はむかしからむんむんと耐えがたい暑さでありましたがゆうほど不快でなかったかも。
さらに暑くなってるとかヒートアイランドとかいろいろあるでしょほんでも。
耐えがたい暑さには耐えがたいなりの喜びがあったんやろうかと。
どーしょーもないとあきらめてたんやろうけど、これも悪うないなあと思う気持ちもどっかにあった。
空調が普通の存在になってきた現在は耐えられへんなってきてんのかもなあ。

そして。
もしかしていつのまにやら「不快指数」なんてことばに引っ張られてるんとちゃう?

不快指数が高いんやから不快でないとアカンのや。
そうであるべきや。
ヒトのあるべき感覚や、うんうん。
なんてね。

気ィくるいそうなほど耐えがたい暑さだってひとつの風情。
楽しむ方向にもってくのがええんとちゃうやろか。

「夏日」「真夏日」ゆうのんはええと思う。
どっかに楽しんでる情緒があるよーな気がする。
猛暑日」なんてもうやけっぱちな気分がありありでおもろい。

やっぱ「不快指数」やなあ、問題は。
ウィキペディアによると米国で考案されたそうです。
まあ季節に情緒なんて求めへんお国なんでしょう。
うんうん、ヒトなら不快であるべきや。
いかにも米国の人が言いそうな感じ。

日本人としてはもっと猛暑にも情感を探しましょ。