よはくのてちょう

手帖の余白に書くようなことを

ゆるやかな時の中で

エルンスト・ユンガーの著した『砂時計の書』に「治療薬としての砂時計」という章があります(講談社学術文庫・今村孝訳)。

ある医師が待合室に砂時計を置いているとしたら、わたしたちは、この医師は患者を「ベルトコンベヤー」方式でストップ・ウォッチのテンポによってではなく、昔流に「アド・ホック」に治療しようとしているのだと推測することができるだろう。

この本で砂時計が象徴するのは昔ながらの、時間の過ごし方。

わたしたちの心身のすべてがアド・ホックに働くように作られているのである。

アド・ホックとは、ここでは「なりゆきまかせ」とか「適当」とか「その場しのぎ」とか「大雑把」とか、そんな言葉があてはまるような時間感覚だろうと思います。
「静止」とも言い換えています。

ほとんど意味のない時間をもたなければならないと著者は提唱しています。
余暇にすら、あわただしく観光するなど「運動」を持ち込むのが現代人。
時計の刻む「時」というのは人間が利便のために作り出したもので、それによって動くのは結局のところすべて「労働」に過ぎない。
しかし、それでは余暇ではない。

わたしたちは、時間(ひま)がなければその意味を失ってしまう空間にまでその世界をもちこんではならない。その内奥においてはわたしたちは時間(ひま)をもたねばならないのである。

会社以外でふだん使っている腕時計は古くなって青息吐息状態です。
ほっといたら、ほとんどまともな時間を示してくれません。
でも修理に出そうとしない。ねじまき式なので、修理できるところも少ないでしょうけど。
こいつといるときが落ち着けるときではあるのです。
時計を身につけているというより、時間を無視するためにつけているような感覚。

そういえば「時計を忘れて森へいこう」という好きなミステリがあります。
この題名だけで好きになったのかも。
たまには忘れてみましょう。


人にとって「時」というものについて。

とても素敵なミステリです。
森の守り人たちと出会った少女。
そこにはゆったりとした時間があった。
彼女たちの出会う事件。