よはくのてちょう

手帖の余白に書くようなことを

真実とは?

ときおり、TV番組の「開運 なんでも鑑定団」を見る。
よそのお茶の間もたぶん同じだと思うが、「これはひどい!ニセモノやで」とか、「これは上手やなあ。ホンモンとちゃうか?」などと話している。

で。

鑑定結果が出て、「ああ、やっぱりニセモンやったね」とか「えーっ!これがホンマモンなわけ!?」なんて反応になる。
ここで、とりあえずぼくらは鑑定士の方々の判断を信じるわけ。
もしかしたら鑑定士の判断がちゃうんやない?とはあまり考えない。
なんせ、あっちの方がはるかにたくさんいいものを見てきており、豊かな経験と、多くの判断材料を持っているのだから、100%信じるわけではないかもしれないが、「ボクよりはちゃんとした判断ができるであろう」と。

でも、頭のどこかで「たまにゃあ経験豊かな鑑定士だって間違うやろうなあ」という意識もある。

これは一種の「リテラシー」なのだろう。
「古物リテラシー」なんちゃって。
正直、社会情勢を読み解くよりも一般人には難しいかもしれないから、なかなか自分で考え自分で判断するというわけにはいかないが。

鑑定を依頼している人々は、たとえどんな結果が出ようと、本人が気に入っているならそれはそれでいいと思う。
でも、ものすごく気に入っていたはずなのに、低い評価だったら急に「どうでもいい」的な雰囲気になったり、逆に高い値段がついたからといって急に「いいもの」に見えだしたような様子をされると少々きょうざめだったりする。
その人の判断は間違いかもしれない。
でも、世の中にじつは絶対の真実なんてものはないのかもしれない。

鑑定品だって、この鑑定士がこういう判断をしたからこういう値段になるのだという「値段をつくる」場合だってある。
それがホンマモンであっても、この鑑定士がニセモノと言えばニセモンなわけだし、ニセモンであってもホンマモンになる。
お茶の道具なんかだって、それが本当にいいものであるかどうかはたぶんあまり関係ないのだ。
その品のこれまでの来歴の中で誰が「これはいい」と言ってきたかで価値が変化するのだ。
マ・クベが「あれはいい壺だ」と言ったから、その壺には価値が生じるのだ。
それが有名人であればあるほど、いいと言った人が多ければ多いほど、価値は高まる。
たとえもともと古の朝鮮半島で一般人が日常的に使っていた雑器なのだったとしても。
そんなもの。
だからじつは、真実は自分の中にしかない。
自分がどう思うかが大切なのだ。

判断材料がなければ間違った判断をするかもしれない。
その自分の判断が間違いかもしれないということを意識しておくこともリテラシーなのだろう。
ちゃんと意識したその上で、自己の判断で楽しんでいればいいのだ。