死の側から見た生の思い出〜「菜穂子」解説〜(4)
(3)
この物語は「やつぱり菜穂子さんだ」との、都築明の印象的なセリフで始まります。
この瞬間、「楡の家」*1以降の明と菜穂子の時間はまったく無効となってしまったのです。あるのはただ「自分を佯つてゐると云ふ」気分か、このすれちがいまでの生活に「何の意味もなくなつてしまつた」かのような気分だけ。
菜穂子も都築明もしょせんは三村夫人*2の雰囲気を反射しつつめぐる月みたいなものでした。ただ、光をはねかえすのは彼らの中にある三村夫人と同質の部分で、読者にはそれが見えます。
「楡の家」で明はすでに三村夫人に近づきつつあったし、菜穂子が反発したのも根は同じだったのでしょう。だから、彼らが本来の自我をゆがめ、日々の生活にまぎれこもうとしても、いつかは崩れゆくものだったのです。明が三村夫人の圏外からはみ出たことによってなし崩し的に「暮らし」を続けていたとしても、それは菜穂子を見かけ、彼女に自身の姿が潜んでいるのを捉えるまでの話。たとえ菜穂子とすれちがわなかったとしても似たような機会はいずれやってきたのです。
そして、菜穂子の方も、彼女の反発は母親の死によって対象を失いました。そうして自己がはっきり浮かび上がってくるのです。
似たものどうしの集まりでした。
たとえば三村夫人は、死んだ夫の思い出だけをしっかり握りしめていました。作家の森於菟彦の求愛じみたものを横目でながめつつ、夫の幻影だけを選んでいたのです。
当の森於■彦にしたって、自己の美化しあげた三村夫人の絵姿を愛でていたのでしょう。
都築明も、一人の好ましい少女(早苗)の喪失を、のっけから半ば以上自ら選び取っていました。少女の耳が不自由だったことも、まるで現実との交渉が長引くことの生々しさが彼を疲れさすのだというふうでした。彼らの内に棲む人々は、共通する性質として、現実には生きていないのです。
彼らはいわば、夢を視る人です。
夢には決まって死のイメージが内包されています。しょせんが視る者の内部でしか生命をはらみえないものなのです。
ここに登場する一群の人びとは、現実味を酷く殺してまで、夢としてのうつくしさを自分のものにしたがったのです。現実の暮らしにおける死を、それが自ずと指向することになるのも気にせずに。いや、むしろ好んでそちらへ足を向けるのでしょう。それは本性であり、だからこそ早苗は明に対してよけいなことを言い出すことができなかったのです。それが明にとっては現実からの語りかけになってしまうのですから。早苗は自分を絵にしてしまったのです。
彼らはすでに現実とのコネクションを絶ち、夢の中にのみ生を見いだしはじめていました。それはおかいこさんのように一人きりになること。夢の中にだけしか生命の細い糸がつながっていないことに気づくこと。生のやかましさより、より死に近づいたしづけさの方を選ばぬわけにはいかないのです。
「孤独」とかいうちょっと鬱陶しい言葉には、現実における死の意味あいが含まれています。彼らは居場所をそこにしか見いだせない。そこでのみおのれの生きている感じをつかむことができるのです。死であり生であり、それは自らのことであり、取り込んでしまった他者のことでもあります。死によってしか生命をつかみえぬというのは、皮肉な性質であったものです。
しかし、物質として占めている場がじつは、いやでも「現実」の空間下なのです。やっかいなことです。自己のみを見つめ続けるのは容易なことではないでしょう。食べなくては生きていけないし、排出行為もあります。外部に向かっている諸器官からの情報もあります。つい注意がよそに向いてしまいがちになるのです。そして、現実世界へのそこはかとない執着も。
明が切実な悲しみを必要としたのはそのせいかもしれません。彼はそれをきっかけにして「現実」を一気にあっちにやってしまおうとしたのです。自意識だけにしがみついて。早苗は人柱となりました。
そして、ひとたび夢を完成させてしまった者にとって、今度は自己の内側だけが現実となるのです。そこは生々しさの失せている分だけやさしくもあるし、それを視つづけているかぎりかえって強くなれるのです。彼らはもう、外からのつっつきに神経を疲れさせたりはません。
ただ、それは完璧なまでに仕上げられるのかどうか。たしかに三村夫人には午睡のしずけさが、ぼくらが最後に出会った明が死にかけていたように見えたとしても、「今のところ」という注釈がついてしまうのです。三村夫人ですら、菜穂子の似つかわしくない結婚に傷つけられたらしいのですから。まあ、そこまで考える必要はないのでしょう。
ともかく、彼らは死の側から生の思い出を視る人たちだったのです。だから、どこかおだやかで、生者に対する違和感と、羨望と、ほほえましい思いがあったのです。
逆に、現実に安住し得、暮らしを守りつづけることに不足を感じず生活していける丈夫な人びとがいます。そして、ここにも気楽なことの美しさはあるのです。目に見えるもの以外に生命の場を持たないでいい、そのラクさ。黒川圭介やその母は「生」だけを見つめ生きることを原則としていきます。性質と生活にギャップはありません。
菜穂子は蝙蝠のふがいなさを負ってしまいました。不覚にもすでに人の妻であり、家庭の中に完全に組み入れられてしまっているのに、どうやら逆のタイプの者だったのです*3。このギャップによって居心地が悪くなります。多かれ少なかれ、ギャップは三村夫人も明も抱え込んではいましたが。
半分枯れたままの生に嫌気がさしたのか、菜穂子は雪の中をサナトリウム(結核療養所)から脱け出して東京へ戻ってしまうという冒険を敢行します。それは、彼女の、家庭に棲む人であるための(あるいは母親への近親憎悪ゆえの)最後の賭けだったのでしょう。いずれにせよ、どっちつかずの苛立ちからはサヨナラできるという無意識の計算は働いていたでしょう。
しかし、そんな賭けの結果はわかりきったことで、菜穂子は読者の(言い換えれば作者の)予想通り(あるいは希望通り)圭介によって「家」からはねつけられることになります*4。
そして、結果がこうなるからこそ「菜穂子」はあと味がいいのですし、堀辰雄さんらしい。そして、作者の限界でもありました。
あるホテルの、雪の窓ぎわで、菜穂子にとって対彼岸でしかなかった家庭というもののまぼろしはついに消え果てました。
《ある運命がそうやって一つのものから他のものへと絶えず受け継がれるのだ》
都築明がそう考えたように、菜穂子もまた、結果的には明の運命がつよく媒体となってか、それを受け継いだのでしょう。そして虚脱の期間を経て、自己を回復するのでしょう。それとも、早や…