よはくのてちょう

手帖の余白に書くようなことを

なつかしむひと(2)

なつかしむひと〜中村眞一郎中村真一郎)・四季〜

(1)かれは回想の語り手でした。(ノオトA)

(ノオトA)
 絶えることなく「現在」が「過去」となって消えていきます。
 瞬間瞬間に味わった体験が、どこかにひっかかってしまったものを記憶(a1)というならば、その後の時間上を旅している「現在」、ふたたび記憶を、どうにかして微かにでも知覚するのが回想(a2)だとでもいえるのでしょう。
 ただ、ぼくが惹かれるのは、べつに記憶と回想とやらのかかわり、その性質、構造なんていうものでもなく、「なつかしいなあ」と、そのひとことで告げられてしまう気分そのものなのです。
 ぼくは、なつかしさがやってくる瞬間をことに愛してしまう類の人間です。過ぎ去り滅びてしまった時間のかなしげなはかなさを、それ故にいいものに感じるのです。ちょっぴり恥ずかしいセリフですけど。
 ともかく、そんな甘さがこの文章になるのだし、当然それは常に底を流れる音なのです。

(a1)記憶>
 ひとは五感に味わったこと、頭の中のはたらき、感情など、知覚しうるすべてのことを記憶として保ち得る可能性を持っています。できごとの発生したとき、それを意識するしないは別として。
 そしてよみがえる思い出はその中から何らかの原因によって取捨選択されるわけです。
 「記憶」は、「体験」あるいは「経験」と言い換えることもできるでしょう。

(a2)回想>
 心理学あたりではこの言葉をどういう意味で使うのでしょう。門外漢でわかりませんが、思い出し方のひとつの具合でも表すのでしょうか。
 でも、個人的には単純に好みで、ごく曖昧な意味で使っていくつもりです。追憶という言葉に取って代えてもいいでしょう。以降も気ままな言葉遣いに終始します。学問的な厳密さを添えるつもりはありません。
 正直言うと、心理学というのには、なんとなく心をそそられるところもあって、つきあい始めたらキリなさそうに思えるので、避けたいのです。厳密にやっていくと、ややこしくなりそうでもありますし。
 まあ、しょせんは主観的な分析をしていくだけですから。